昭和43年3月22日 朝の御理解    (末永信太郎)    №43-095




 御理解第42節に、こうあります。これほど信心するのに、どうしてこういうことが出来るであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。これは、まだ信心が足りんのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる、と教えておられます。
 信心するのに、どうしてこのようなことが起こって来るであろうかと思えば、もう、信心は止まっておる。これは、まだ自分の信心が足りぬからだと思うて、一心に信心をして行けば、そこからおかげが受けられる。ね、ところが、なかなか、お互い信心させて頂いておって、本当に自分に都合の良い時にはおかげ、おかげ、広大なおかげを頂いてと、こう、誰でも、いわゆる、こう、(ばっしい?)のでございますけれども、それと反対なことになって参りますと、誰でもがやはり、どうしてというような心が、一応は起こります。
 ね、けれどもそれではね、おかげが受けられんのです。そこで、そういう時に、これが、まだ自分の信心が足りぬからだと、そのことに対して、一段と信心が進められて行き、いや、そのことを元気な心で受けて行き、まあ、または、そこんところを有り難く受けて行けれるために、そこの訳合いというものが分かっておかなければならん。
 良いことだけがおかげではない。良いも悪いも、信心して御取次を頂いて、起こって来ることはみな良いという信心なのである。ね。だから、なら、そのように、例えば、先日からも高橋先生の説かれるところの、ね、御取次を頂いて起きてくることは、良いこと悪いこと、みな良い、とそれが、本当にその、そう信じて頂かれれば問題ないのだけれども。ね。それが本当なことであっても、信じられないところに、凡夫の悲しさがある。どうして、このようなことが、こげん信心しよとに、どうしてこんなことがと、まあ、いうことになって来るのである。ね。
 そこんところをね、そこからおかげが受けられると仰るのですから、そこからおかげの頂けれる道を、いよいよ開かせて頂くために、ひとつ、今日は私が申しますところを、皆さんが良う分かって頂かなければならんと思う。昨日、善導寺の春の霊祭でございました。
 それで、今度あちらの四男であります(まさあき)先生が、今、鳥栖に行っておられますが、今度、結婚式が、今度31日に行われます。そのご案内を、まあ、正式に受けたわけでございます。ですから私、そのことを神様にお届けもさせてもらい、こちらもおくり合わせを頂かなければなりませんし。また、新郎新婦の上にも、そのことをお願い御取次をさせて頂いておりましたら、私のいわゆる心に頂きますのはね、8の字、数字の8の字を横にこう寝せて頂くんですよね。私は、この横に書いてあるのが、意味がまだ分からんのですけれどもね。8の字。いわば、〇を二つ合わせたようなものですよね、8の字は、数字の8ですから。
 これを漢字で言うと、こういう八の字になる。いわゆる、この八の字を末広と、こう言う。本当に末広のおかげの頂かれるためにです、この数字の8の字をです、これはもう、捩れても、ね、捩れても、この、ここに、とこに、こう結ばれておるわけです。ね。
 長い、やはり夫婦生活の上には、様々な問題もありますよ。ね。けれども、その、それが捩れるようなことになっておっても、ここの真中のとこだけはピチッとついておって、しかも、〇が二つ、こう繋がって、8の字であるから。ね。ここんところのおかげが頂かれるような、いわば、漢字で言う八の字の末広の、いよいよ、おかげが頂かれるように。言うなら、生神金光大神取次の道のごひれいが、ね、鳥栖の教会の上に、または、鳥栖の先生、将来先生になられることでございましょうが、その、まさあき先生達夫婦の上に、おかげになって参りますように。まあ、祈らせて頂いておりましたらです、まあ、言うなら、一つの祝辞とでも言うでしょうかね。そのことについて頂きますのは、先日あの、私はあの、調布から送ってきたという、その、ワカメを頂いた。今、ちょうどワカメが、新ワカメが、こう、わいておるですね。
 本当に、夫婦の方達の幸せをですね、祝福するように、いよいよ、春の花が咲きにおう、小鳥の鳴く声も、ね、さえずりの声も本当に、自分たち新郎新婦のためにあるように感じる。自分達のために花が咲いてくれる。自分達のために、鳥がさえずってくれておるように思う。ね。本当に、天地が祝福して下さっておるんだなあ、というようなものを、まあ、実感させて頂くわけでございましょうがです。ね。
 まあ、言うならば、その太陽の熱を全然受けない海の中。ね、海の中、ワカメなんかというものは、太陽の熱なんか受けないけれども、何とはなしに、そうした春の息吹というか、ね、海の底にまで天地のお恵みというものが、春の息吹というものが感じられるような中に、そういう春の息吹の中に、そうした目出度い結婚式が行われるけれども。ね。
 決してそれだけがです、天地が二人を祝福しておるのではない。必ず、雨もあろう、風もあろう。または、冬の寒い(木枯らしを引きさぶような?)時もあろう、霜の朝。ね。雪の明日もあろう、炎天焦げるような夏の暑い日もあろう、と。ね。そういうような天地すべての働きがです、その新郎新婦のためにあるのだ。
 春の花が咲いたり、小鳥がさえずったり、そういうようなことだけが夫婦のためにあるのではない、天地のすべての働きが夫婦のためにあるのだという、私は確信を持たせてもらう。ね。そこに、いよいよ、ね、捩れても捩れても、ね、8の字になって行けれるおかげが受けられるのだ、と。
 人間の幸せというのが、ね、もう、いよいよ末広になっておかげが頂けて行けるのだ。金光大神はそういうようなことを、例えば、只今申しましたような、平凡な御教えの中から説いておられるように思うのでございます。ね。信心させて頂いておっても、ね、春の暖かい日だけではないぞ、と。信心するのに、どうして、こげな寒い冬があるじゃろうか。信心しよるとに、どうしてこげな雨が風が吹くじゃろうかというところには、もう、信心はない。これは、まだ、自分の信心が足りんのだと思うて、一段と信心を進めて行きよると、そこが分かって来る。はあ、あの雨も嵐もおかげであったなあ。ね。霜も雪もみなおかげであったなあ。難儀と思うておったけれども、あれは難儀じゃなかったんだなあ、ということが分かって来る。
 この42節のその御教えを、本当に行じさせて頂かなければ、そこが分からんのである。ね。天地の中には、もう、ね、これを難しい言葉で言うと、現在のあらゆる学問がありますけれども、その学問の最高峰であると言われておりますね、(相法制原理?)という、その学問から言うても、そうだそうです。
 昨日は私、ここを下がらせて頂いて、もう、やがて11時近くでした。コタツの間に下がりましたら、ここの光昭と、それから、羽犬塚の教会からあちらの長男であります、未来の若先生がお参りして、毎朝、朝参ってきます、羽犬塚から自転車で。昨日は、あちらの霊祭であって、お参りが出けなかった。それで、夕べの御祈念にお参りをさせて頂いて、もう、盛んにあそこ、2~3人、若い人達が集まって、信心の共励をやっておるところでした。
 と、私はそちら座りましたら、その、羽犬塚の西くんが申します。先生、あの、だいたい、あの、神様のお声を頂くといったような、まあ、どういう信心をさせて頂いたらいいだろうかと、こう言う。将来、取次ぎ者としてですたいね、御用もさせて頂こう、難儀な氏子の助かることのために、本気で、やはり、ああいう、まだ若い身空に、ね、人の難儀の助かることのために、これから本気でひと修行させて頂こうと、こういう健気な心の中に、合楽合楽と言うて通うて来るわけなんです。
 それで私が、あんたが先ほど、あの、御取次を願ったのにね、もう、一日合楽に参らなかったら、寂しゅうてたまらん。もう、心がいつも合楽に飛んで行っておる。そういうお届けをするんですよ。それが、神様へ対する、合楽に対するところの憧念心、憧れの念というものが燃やし続けられる。それなんだ。ね。
 そういう信心がしっかり出来よれば、まあだ、神様の声を頂いたり、ね、御神眼を頂くとか、ここで皆さんが言うが、そういうようなことは、私は、まあ、言うならば、今、僕たちが言うことじゃない。ちょうど、その辺で話をしておるところへ、堤清さんが入って見えましたから。ね。この清さんがいつも言われるように、ね、自分自身が、本当に変わって行くということが有り難いという、それが、一つの憧念心にもなって。ね。憧れの念ともなって、いわゆる、羽犬塚から毎日毎日、合楽へ合楽へと通うて来る。その憧念心が大事なんだ。それを育てて行きゃあいいのだ。
 いよいよ、合楽が慕わしゅうて慕わしゅうてたまらんというような信心になって行きゃいいのだ。言うなら、信心が好きになるのだ。ね。例えば、光昭が前におるのに、この光昭くんはね、何とはなしに、そういう霊的なことの御神眼を頂いたりするんですよね、お声を頂いたりするんですよ。本人が一生懸命、修行しよる時には現われて来る。ところが、ここの若先生は、それとは反対なんです。
 けれども、その、若先生が場合なんかは、皆も気がつくだろうけれども、私が話したことをですね、私が思うておることを、いつも話にしたり、思うておることが、いつも親先生と通うておると、こう言うだろうがて。あらあ、さっき親先生が話しなさったことを、若先生が全然ここにおられんのに、あちらでも話しておられる。いわゆる、交流しておるのだ。
 ね、それは、その人の生き方によって、光明のような生き方の者もあるかと思うと、ね、いわば、心と心が、もうすでに交流しておるというような生き方もあるんだ。どちらがどうと、どちらが早く、どちらを先にということはない。だから、そういう、まあ、不思議な世界といったようなものだけに憧れずに、ただ、合楽にあるところのごひれいと言うか、または、御取次をしておる親先生の信心に、言うなら憧れてのお参りということになって来りゃ、段々頂けることだろう。
 いわゆる、清さんが言われるようにです、ね、もう、自分自身が本当に変わって行くということが楽しゅうてお参りをして来るという信心にならにゃいかん。(のも山?)も、ね、道も昔とは一つも変わっていないけれども、変わり果てた自分自身の心というものが、何と有り難いことであろうかと言うて、(びいん?)が感泣したと言う。ね。そういうものが、堤清さんの上にもある。
 それが、堤清さんは、有り難うて、有り難うてたまらん。本当に清さん辺りのことを、もし、信心のない者だったらです、朝の御祈念にもあんな沢山の人を乗せてからお参りして来なさる。そして、心行くまで御理解を頂いて帰る。帰ると、また晩はまた参って来て。ね。本当に清さん、ちった、この頃は合楽に惚けてござらんじゃろうかと言うて笑いよるかも知れん。けれどもね、人に笑われても、人に悪う言われても、笑われて賢うなって行かにゃいかん、叩かれて強うなって行かにゃいかん。ね。
 人から笑われても、神様からは笑われちゃならんという信心を、西くん、させて頂かにゃいかんよ、と。アンタが合楽、合楽。しかも、自分は教会の長男でありながら、よその教会にお参りをして来るということは、ね、それは本当に様々な非難があるかも知れない。けれども、そういうことを問題にしちゃならん。
 自分自身の心が変わり果てていく。その有り難いということがです、分かって、合楽へ憧念心を燃やして行きゃあ、おかげ頂くだろうと言うて、その、今言う、相法制原理の話をしたんです。ね。例えば、ね、(おえん?)の日差しのよく通るところ、ね、温室のように。ここで、なら、このばあちゃん達がおります、あの部屋なんかは、もう、寒い時でも日が照りさえすりゃ、もう、それこそ、気持ちがらんなんごと、ぽかぽかと暖かい。長椅子にでも腰掛けて、ジーッとその、外は(木枯らし吹きすさんで?)おるような時でもです、ぽかぽかしたような、その、眠気がつくような状態。はあ、本当にうとうととして、有り難いなあ、というものを感じるだろう。ね。
 それも、だから、神様のおかげである。ね、それも神様とのおかげである、神様との繋がりがあってこそ、そういう気持ちにもなれるのだけれども。なら、一歩外へ出てです、ね、なら、雪なら雪の中に、霜なら霜の中に、もう、どうしてこういうような寒い冷たい思いをしなければならんのであろうかということも、やっぱり、その人のためにあるのだ。ぽかぽかと暖かいその日差しも私のためなら、ね、外のやはり、霜の、また雪の冷たい日も、やはり、ね、わざわざそこに入って行くのじゃないけれども、そこにおらなければならないようになっておったら、そこを有り難く受けて行かにゃいけんじゃないか。
 ああ、寒かけんで、もう、今日は外には出るまい、と。出らなければならない用事があっても出らん。そういうことでは、信心にならんのだ。ね。そこにも、神様の働きがあっておるのであるから、そこも有り難く頂いて行かなければいけないのだ。と言うて、まあ、お話をしたことでございます。ね。
 そういう風に私どもが分かって参りますとです、信心しておって、どうしてこのようなことが起きてくるだろうかということやらは、思いをすなていうくらいです。ね。信心させて頂いておって、本当に冬でもぽかぽかと暖かいといったようなおかげが頂けておるかと思うとです、場合によっては、その、霜の中にでも裸足で下り立って行かなければならないようなこともあるけれども。
 それとても、やはり、神様のおかげの中にあるのだ。それも、私のためにあるのだ。ね。親鸞上人様が、ね、言うておられる言葉の中に、素晴らしい、その言葉がある。ね。我親鸞一人のために、ね、世界中のすべてのことがあるちゅう。これは、私のことも、それを言えると思うです。私、大坪聡一郎一人のために、世の中のすべてのことがある。
 もう、厳密に言うたら、ベトナムの例えば戦争なら戦争でも、私一人のためにあると言うても過言ではないくらいなのです、厳密に言うて行ったら。いわゆる、相法制原理といったような学問から説いて行ったら。ね。大海、海の真中でですね、一人が小便したからと言うてから、大して塩気が余計ついたということも感じられないぐらいだろうけれども、しかし、それだけは確かに水も多うなっとるだろう、言うなら、塩気も入みっとるのだろうけれどもね。
 そういう、例えば、厳密なことを言うて行ったらです、たしかに、親鸞一人のために世界中のことがあっておるというようなことが言えれるのです。それを信心させて頂く者はです、なるほど、私一人のためにあっておるんだなあ、と実感させて頂けれる生活が出けるということ。ね。
 なるほど、私一人のために天地の親神様が動いてござるんだなという実感が頂けれるという、それを霊験と言うのである、おかげと言うのである。ね。もう、2ヶ月にもなりますでしょうか。福岡の高橋さんの奥さんのお爺さん。田畑万次郎という方、もう、八十いくつになられる。
 それが、もう、難しかろう(や見て?)電報が来た。いち早く、ここにお届けがあった。それはおかげを頂くようにということで、まあ、日々御取次を頂いてお願いをなさっておられたら、おかげを頂いて(症候?)を得た。まあ、ジーッと起きて、まあ、ご飯もいけるようになり、もう、その時、すでに(    )となっておられた。それがおかげを頂いたんですよね。私は本当に、その辺のところの実意丁寧な信心が本当に有り難いと思うですね。もう、八十いくつもなっちゃるとじゃから、もう、寿命が来ちゃるとじゃからとじゃない、やはり、神様に頂いておる寿命を本当に真っ当し得ることのために、もう、言うなら孫の婿である、高橋さんは。その叔父さんのことを日々御取次を頂いて、お願いをしてあった。
 ところが、一週間ばっかり前に、また具合が悪くなって足が腫れ出したという御取次があっておった。私は昨日、ここをお参りをして帰られてから、あの、もう、私が下がってからでしたから、電話がかかって来てお届けがあっておる。そのお爺さんが亡くなられたと言うのである。
 私はそれを、お届けを聞かせて頂いて、なるほど、高橋さん一人のために天地が動きござるなあ、と思うたです。ね。二十日はあの人達の菊栄会ですから、どうでも出席しなければならない。ね。21日という、言うなら、仏教的に言うなら彼岸のですね、有り難いという、その21日にお国替えのおかげを頂いておられる。そして、今日は22日がお葬式である。23日はここの御霊様のお祭りである。ね。
 神様が、もう、よりによって、もう、日にちの上にもですね、彼岸の有り難い時に、しかも、高橋定利のためにです、ね、一つも差し障りのないようなところに、おかげを下さってるでしょうが。20日であっては困る。ね。21日に亡くなられ、22日のお葬式を済まされ、23日はここの、春の御霊のお祭りにまたお参りも出ける。ね。私は思うんですよね。御取次を頂いてです、ね、その御取次の働きというかね、その道のごひれいが、本当に私一人のために、そういう働きがあっておるようにです、お爺さんの死をめぐって、そういう働きがですね、高橋さん一人のためにあっておるという感じがするでしょうが。
 そこにですね、信心を頂いておる者の有り難さ。ね。相法制原理といったような難しい学問は分からんに致しましてもです、なるほど、その繋がりの微妙さといったようなものをですね、そこに再現して下さるというか、そこに現して下さるというか。再現じゃないですね、現して下さる。ね。
 そこでここで、なら、高橋さんが思わなければならないことなんです。このように素晴らしい神様のお引き回しの中に、ああ在って、こうあっておるのであるから、例えて言うなら、お店の店員さんがですね、どうもこの頃、言うことを聞きません。どうも、陰日なたがあっていけません。家の中にこうであります、店の具合がこう困ったことになりましたというようなことが、よし、それがありましてもです、そういう間違いのない神様の働きの中にそうあるのであるから、その店員なら店員の、不行状なら不行状を見てです、わが身の不行状としなければならないことが分かるでしょうが。ね。
 なら、子供でもいいです。ね。子供が言うことを聞かん。ね。神様にお願いをし、御取次を頂いて言うことを聞かんのであるから、これは、この人が言うことを聞かんのじゃない、私自身の心の中に何か分からせてもらわなければならないものがあるんだというような頂き方が出けるでしょうが。
 ね、信心しよって、有り難いことばっかりなら有り難い。ね。皆も誰でも、おかげおかげ、広大なおかげと言うけれど。ね。信心しておって、どうしてこのような事が起こって来るであろうかと、日々御取次w頂いて、おかげを頂いておるのに、そこに、高橋正雄、高橋ひろし先生のその説かれておるところのものが生きて来るわけですね。御取次を頂かずに出来たことは、良いことでも悪いことでも、みな悪い。御取次を頂いて起きて来ることなら、良いこと悪いこと、みな良いということになって来るわけです。
 ですから、それがよし、悪いことであってもです、そういう神様の、ね、もう、それこそ厳密なお働きの中に、ね、寒いこともありゃあ、暑いこともあるのであるから、暑いことも寒いことも、降ることも照ることも有り難いとして受けて行かなければならん。
 どうして雨が降るじゃろうが、どうしてこげん寒いじゃろうかといったような事ではです、いわゆる、そこからおかげが受けられるという、そこからのおかげが受けられんのです。ね。そこからのおかげというのが、私は、いわゆるおかげの展開と言われますね。おかげが展開して行くというのは、そういう信心から生まれて来るのです。ね。
 これほど信心するのに、どうしてこのようなことが起こって来るであろうかと言えば、もう、信心は止まっておる。これは、まだ信心が足りんからだと、一段と信心を進めて行けば、子供が言うことを聞かんのは、まあだ、これは自分の信心が足りんのだ。自分と直結、繋がりがある。
 ね、自分一人のために一切があるのですから。子供が言うことを聞かんのも、やっぱり、その中にはあるのだ、と。ね。高橋さんのお爺さんの死ということについてです、ね、なるほど、神様が高橋定利一人のために、このような素晴らしいお引き回しというか、おくり合わせを下さるほどの神様。ね。
 そういう働きを下さる神様が、このことだけには、経済のことだけには、健康のことだけには、人間関係の上だけには、おかげを下さらんというはずはない。そのおかげの現われが、場合には痛いこともありゃ、寒いこともある、冷たいこともあるのだ。
 だから、そこを合掌して受けて行け。これは、まだ一段と信心が、一段と、ね、信心が足りんのだと一段と信心が元気な心で進めて行けれるのである。ね。そこから、おかげが受けられる。そこから、おかげの展開が成されて来るのです。ね。まさあき先生の結婚に当たって、私が頂きます。ね。8の字がこう、それこそ、こう、捩れるようなことがあっても、ね、ただ、春の日の暖かい花が咲いたり、小鳥がさえずったり、自分たちの、いわば、結婚を、その、天地が祝福してくれておるように感じれれる、そういうことだけなら。ところが、それとは反対に、それこそ腹の中が捩れるような腹の立つようなことがあるかも知れん。ね。それでもです、やはり、同じ神様の働きであるのであるから、そこんところを、こう、8の字のここんところに、ね、一つの繋がりというものを持って。ここがきちっと、繋がってさえおけばです、いわば、末広のおかげに繋がって行くようにです、ね、おかげを頂いて行かなければならん、と。ね。
 改めて、生神金光大神取次の道の働きが、ね、高橋さんの上に、そういうような風な有り難いことにです、ね、本当に自分一人のために、このようなお爺さんの死があると感じられるようなおかげの中にです、そんなら、お店ならお店の上にもそんなに都合の良いことばっかり、自分の思うておる都合の良いことばっかりじゃなくて。どうしてというようなこともあるけれども、その、どうしてというようなことの中にです、自分自身との繋がりがあることを分からせてもろうて。
 それが天地の働きであり、いよいよ、おかげを下さろうとする神様の、いわば、願いの現われであると悟らせてもろうて、そこから一段と信心を進めて行く。そこからのおかげを頂いて行くためにですね、ここんところが分からなければならんと思うのでございます。どうぞ。